肖像

ファッション業界の最前線で活躍するトップクリエイターの方々にインタビュー

原 由美子 vol.2

PROFILE

原 由美子 (ハラ ユミコ)
原 由美子氏に聞いた20の質問

1945年 誕生。神奈川県鎌倉市で育つ
1967年 慶應義塾大学文学部仏文学科を卒業後、日仏学院に通う
1969年 『ELLE』の整理係として、『アンアン』創刊準備に携わる
1972年 『アンアン』50号で初めてスタイリストの仕事に携わる
1973年 初の海外ロケ。パリコレを取材(~2011年)
1974年 『婦人公論』巻頭のファッションページの連載を担当
1977年 『クロワッサン』の創刊メンバーに加わる
1982年 『エルジャポン』(平凡出版)創刊号より1年間、ファッションディレクターを務める
1986年 『マリ・クレール日本版』でシャネルをはじめファッションページをスタイリング
1988年 『Hanako』創刊号をはじめファッションページをスタイリング
1991年 毎日ファッション大賞の選考委員(2012年まで)
1993年 『エスクァイヤ日本版』の連載
「Weekend Gentleman原由美子の〈週末の紳士たちへ〉」スタイリング
1997年 JAS(日本エアシステム)の新ユニフォームの企画を担当
2002年 『和樂』の連載「和の心で着るモード」スタイリング
2004年 「日本クリエイション大賞」の選考委員(~現在)
2010年 『フィガロジャポン』で「きもの上手」連載(2015年に書籍化)
2012年 著書『原由美子の仕事 1970→』(ブックマン社)を出版

AWARD HISTORY
1995年 ミモザ賞
2012年 第54回FECJ特別賞
2014年 第32回毎日ファッション大賞 鯨岡阿美子賞  

     

『アンアン』創刊号から誌面づくりに携わり、50号目で初めてスタイリングを経験

『ELLE』と提携した平凡出版初の女性誌『アンアン』の創刊は70年3月。
スタートは資料整理だったが、原は何かに導かれるようにスタイリストとしての道を歩み始める。
77年には同じく平凡出版の『クロワッサン』の創刊に参加、80年には『クロワッサン』の別冊『原由美子の世界』を一冊丸ごと、企画・スタイリング。
82年に『エルジャポン』が創刊され、1年間ファッションディレクターを務めた。
その後も『ラ・セーヌ』『Hanako』『ギンザ』など、数々の創刊に携わり、国内外を飛び回りながら、精力的に仕事をこなしていく。

『アンアン』創刊準備室での最初の仕事は、フランスの『ELLE』から毎週のように届く、タイプ原稿やポジフィルムを整理し、ジャンル別に分類してファイルすること。
当時の準備室には女性編集者がいなくて、アルバイトの女性が数人だけ。編集長が一人で切り盛りしていたので、大忙しです。そんな状況のなか、すぐに編集の仕事も手伝うようになりました。

 フランスの『ELLE』から届いた素材を使って、16ページの誌面を構成する。
私なりに素材を整理してアートディレクターに渡すと、すぐにレイアウトがアップ。
そこに必要な原稿を翻訳して入れ、追加の原稿がほしい時は、自分で書く。
平凡出版が女性誌を出すのも、海外誌と提携するのも初めてのことでしたから、編集部は「新しいことをやろう」というエネルギーに満ちあふれていました。
私にとっては、何もかもが新鮮で、楽しくて……その感覚があったから、ずっとファッションの仕事を続けられたのかもしれません。

 創刊して1年ほど『アンアン』が掲載していた服は既製品ではなく、誌面のためにつくってもらったオリジナルの服でした。
当時は既製品を載せる雑誌は、ほとんどなかったのです。ですが、創刊2年目を迎えた72年、50号目から方向転換し、初めて既製服を価格とともに掲載することになります。

 この時、編集長から「原さんはファッションが好きなのだから、編集を兼ねたページを全部自分でやってみない?」と打診され、心が躍りました。
フランスの『ELLE』には構成・監修という意味の「レアリザッシオン」、アメリカ版には「ファッションエディター」というクレジットが掲載されています。
これらは、記事のテーマからカメラマンやモデル選び、スタイリングまでを仕切ることを指します。
私もそんな仕事に憧れていたので、すぐに「やらせてください」と答えました。
そんな経緯で、『ELLE』の提携ページとは別に、『アンアン』独自で企画したモノクロのファッションページも担当するようになりました。

 初めて担当した記事は、自分の〝引っ越し〞がテーマでした。
「スタイリストの仕事が増えるので、一人暮らしの家賃も払えそう」と、鎌倉から都内への引っ越しを決め、モデルを使ってその様子を撮影して記事にすることに。
ところが、提携ページの編集作業が重なり、忙しくて自分の荷物もまとめられない。
何とか撮影はできましたが、初めてスタイリストをした感激より、その忙しさを思い出します。
あとは自分で書いた原稿の文章が「句読点がなくてわかりづらい」と、何度も書き直しさせられたことも(笑)。

 洋服の手配も、もちろん初めての経験でした。
メーカーも雑誌に服を貸し出した前例などなく、当然プレスルームもない時代です。自分の名刺を手に、様々な店を訪ね、貸し出しのお願いに回りました。
雑誌が発行される季節に合った服を借りるのも至難の業。
「今、店頭に並んでいる服ではなく、雑誌が出る頃に売っている服を」と話してもうまく理解されず、とにかく必死で説明し続けました。
それでも1年くらい活動を続けていくと、プレス部門を設ける会社が少しずつ増加。
特にいち早く近代的なプレスルームを設置したBIGIは印象的でしたね。

『アンアン』で仕事を始めて3年後の73年には、『婦人公論』から声がかかりました。
巻頭グラビア・ファッションページの企画とスタイリングの依頼でした。
同誌でも価格を載せることにしましたが、誌面を見た男性から「こんな高い服を誰が買うんだ」と抗議があったことも。でも、値段だって大切な情報です。
高いなら高い値段であることを読者に知らせるべき。編集長も私の考えに賛同してくれました。

 またある時、フランスの『ELLE』のページを見たアンアン編集長が「このページは何?」と尋ねたので見ると、〝タイアップ(記事風広告)〞と記されていました。
それからほどなくして、『アンアン』の誌面にもタイアップが登場しました。
80年代以降、国内アパレル企業のタイアップが急増し始めたきっかけは、『アンアン』にあったようです。
ファッションページが商売の手段になることに抵抗はありましたが、女性誌が盛り上がっていったのはタイアップのおかげ。こうした女性誌の変遷も、間近で見てきました。

 私がスタイリストを始めた頃、今では当たり前のことも、前例がないことばかり。
初期はロケバスもなく、ハイヤーをチャーターしてロケ現場へ行っていましたし(笑)。
自分の頭で考えて、できる方法を模索しながら仕事をしていましたね。こうやって昔を思い返すと、今はいろいろ楽になっています。

 その後徐々に、スタイリストとして名前が知られるようになり、テレビCMの仕事依頼をいただくこともありましたが、積極的にお引き受けすることはしませんでした。
私のキャリアは『ELLE』と『アンアン』という雑誌のファッションページから始まっています。
「雑誌で仕事したい」という思いが強かったのです。

スタイリストという仕事に出合い、その仕事に魅了され、ファッション界ではスタイリストの第一人者として1970年代の日本のファッション誌の黎明期を駆け抜ける原さん。その根底にある思いとは? 次回、パリコレとの関係を語ります。

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