肖像

ファッション業界の最前線で活躍するトップクリエイターの方々にインタビュー

中野裕通 vol.1

PROFILE

中野裕通 (ナカノヒロミチ)
中野裕通氏に聞いた20の質問

1951年 宮城県岩沼市に2人兄弟の次男に生まれる
1970年 宮城県仙台第三高等学校卒業
1972年 株式会社ニコル(NICOLE)に入社
1976年 株式会社ビギ(BIGI)に入社
1979年 ビギを退職。デザイナー小栗壮介氏と、原宿のセントラルアパートにオフィスを構え、アパレル企業の傘下で新ブランドをスタート
1981年 株式会社サンエー・インターナショナルに入社。ビバユー(VIVA YOU)のチーフデザイナーに就任
1984年 サンエー・インターナショナルにて、自身のブランド「hiromichi nakano(ヒロミチナカノ)」をスタート
1986年 東京ファッションデザイナー協議会(CFD)加入
1991年 独立。株式会社ヒロミチ・ナカノデザインオフィスを設立
1998年 パリ・コレクション(1999年春夏コレクション)に初参加

《受賞歴》
1989年 毎日ファッション大賞新人賞・資生堂奨励賞
1999年 第42回日本ファッション・エディターズ・クラブ特別賞  

     

"憧れ"の力で開いたデザイナーという道。
周りに流されることなく、"自分らしい"生き方を追い求めながら、デザイナーを続けていきたい

音楽、東京、原宿__。
格差間の裏側にある憧れがファッションへの興味をつなげていった

宮城県出身の中野裕通は、東京と原宿の街に憧れ、音楽など最先端の流行に憧れ、上京してからはファッションとパリに憧れるように。それらの"憧れ"をエネルギーに変え、一つひとつ夢をかなえてきた。20代からアートや玩具、古美術を収集して美意識を磨き、65歳の現在も自身のコレクションを発表する。中野流、無理せず好きなことを続けていく生き方とは。

 実家は宮城県岩沼市にあった神社で、両親と4歳違いの兄の4人家族でした。小さな頃は、山へ栗やアケビを採りに行ったり、釣りをしたりと、自然が遊び場。秋に台風が来ると「栗が落ちているかも!」とワクワクしました。その当時から、東京との格差を感じていましたね。テレビが家に入ったのも遅かったし、成績はそこそこでしたが都会とはレベルが違うんだろうなとか、うちで干し柿を食べている時、東京の子はケーキを食べているはずだとか勝手に想像して(笑)。でも今思い返すと、その頃に感じていた格差が、僕の原動力になったんですね。格差感は憧れと同じでしょ。自分が生まれた街より県庁所在地の仙台はカッコいいとなり、それが東京への憧れになり、パリやロンドンへの憧れとなっていきました。

 最初にはまったのは音楽で、それがファッションへの興味につながっていったような気がします。スタートは小学4年の時、米軍のラジオ放送で聴いたビートルズの『ラヴ・ミー・ドゥ』。感動して、すぐにレコードを買いに行ったことを覚えています。中学以降は昼はジャズ、夜はリズム&ブルースを聴くように。高2の頃はソウルミュージック。格安の深夜バスで東京に向かい、ソウルをかける新宿のクラブに行ったりしていました。
 ファッションのスタートはIVYです。というより、地元にはIVYを売っている店しかなかったので、それが僕たちの最先端ファッションの到達点だったんですよ。
 最初の大学受験に失敗した僕は、予備校の原宿校に通うために上京しました。生活費の足しにと、原宿の千疋屋でアルバイトを始めたのですが、そのビルには三宅一生さんの事務所があったり、ビルの向かいには人気ブランドの「MILK」のアトリエがあったり。近所のレオンという喫茶店や、千疋屋にも最先端のクリエイターや業界人たちがよく来ていました。強烈な記憶として残っているのが作詞家の松山猛さん。ベレー帽をかぶり、フランスの蚤の市で買った古靴を履いていて、すごくカッコよかったな。その頃、国内は学生運動で大騒ぎの時代です。大学生のデモ隊と警察の機動隊が原宿でぶつかる日は、危険だからと店を閉めるほど。そんな激動の街を見ているうち、大学への興味が徐々に失われ、「ファッション系の人たちが行き交う原宿で暮らしたい」という思いがふくらんでいきました。

新進気鋭のクリエーターたちが集まる1970年代の原宿に魅了された中野氏。ここからファッションの世界への道がどのように開いていったのか...次号に続きます!

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