肖像

ファッション業界の最前線で活躍するトップクリエイターの方々にインタビュー

中野裕通 vol.3

PROFILE

中野裕通 (ナカノヒロミチ)
中野裕通氏に聞いた20の質問

1951年 宮城県岩沼市に2人兄弟の次男に生まれる
1970年 宮城県仙台第三高等学校卒業
1972年 株式会社ニコル(NICOLE)に入社
1976年 株式会社ビギ(BIGI)に入社
1979年 ビギを退職。デザイナー小栗壮介氏と、原宿のセントラルアパートにオフィスを構え、アパレル企業の傘下で新ブランドをスタート
1981年 株式会社サンエー・インターナショナルに入社。ビバユー(VIVA YOU)のチーフデザイナーに就任
1984年 サンエー・インターナショナルにて、自身のブランド「hiromichi nakano(ヒロミチナカノ)」をスタート
1986年 東京ファッションデザイナー協議会(CFD)加入
1991年 独立。株式会社ヒロミチ・ナカノデザインオフィスを設立
1998年 パリ・コレクション(1999年春夏コレクション)に初参加

《受賞歴》
1989年 毎日ファッション大賞新人賞・資生堂奨励賞
1999年 第42回日本ファッション・エディターズ・クラブ特別賞  

     

見様見真似で描いたデザイン画が認められ、「ビギ」でデザイナーとして働き始める
 

手伝った洋服の会社が成功し、できるだけ長くパリに滞在したかった中野だったが、3カ月で手持ちのお金がなくなり、帰国して仕事を探すことに。MILKに、デザイン画を15枚ほど持ち込んだが「このデザイン画はうちではない。ビギの方がいい」とアドバイスされ、早速ビギに連絡。面接を受ける。

 菊池さんたちに、そのデザイン画を見てもらったのですが、「1カ月後にショーを控えていて忙しいので、少し待ってくれ」と言われました。でも私には生活のことがあり、その旨を伝えると、「じゃあ明日から来るように」と。それが25歳の時です。
 デザイナーとしての入社が決まって生活の目途もつき、ホッとしました。とはいえ、会社としてのビギは規律がとても厳しく、3日続けて無断欠勤したら退職だし、遅刻をすると朝礼の時にみんなの前で理由を言わされる。当時千葉県の市川市に住んでいて通勤は大変でしたが、ルールは守り、デザイナーとしてのスキルを身につけていきました。
 ビギでは5年ほど働き、30歳でサンエー・インターナショナルに転職。「ビバユー」のチーフデザイナーを任された。その3年後には、同社から自身のブランド「hiromichinakano(ヒロミチナカノ)」を発表している。1980年代のDCブランドブームにも後押しされ、中野の服はファッションに敏感な女の子たちの必須アイテムとなっていく。

ビバユーのチーフデザイナーとしてのミッションは、〝売れる服〞をつくること。僕は売れ筋を知るため、ショップに頻繁に足を運び、スタッフとコミュニケーションをとりながら、どうすれば売れる服がつくれるかリサーチを続けました。これは今までになかった経験です。なぜならそれまではニコルなら松田さんの、ビギなら菊池さんや稲葉賀惠さんのフィルターを通しさえすれば、売れる服になっていましたから。
 そして33歳の時、自分のブランドを発表することになります。短期間でビバユーを成長させた功績が認められたからともいえますが、むしろ企業としてのブランド戦略の意味合いが強い抜擢だったと思っています。当時は、原宿コレクションが開かれるなど、DCブランド全盛期。幸運にも小泉今日子さんの衣装を手掛けることになり、『NHK紅白歌合戦』や『夜のヒットスタジオ』などテレビ出演時の衣装もつくらせていただきました。その縁で東京コレクションにも出演してもらいました。大人気のカリスマ的アイドルと一緒に仕事ができるなんて、普通の職業ではありえないことでしょう。衣装担当としてスタジオにも同行するので、紅白歌合戦の帰りのタクシーの中で一人で除夜の鐘を聞いたことも懐かしい思い出です。彼女との仕事が、僕の業界での存在感をとても大きくしてくれたと思っています。その後たくさんのモデルやタレントさんが、僕のショーに出たいと言ってくれるようになりましたし。

自身のブランド「hiromichi nakano」でデザイナーの確固たる地位を築いた中野氏。いよ いよ次回はパリコレへの挑戦です!

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