肖像

ファッション業界の最前線で活躍するトップクリエイターの方々にインタビュー

中野裕通 vol.4

PROFILE

中野裕通 (ナカノヒロミチ)
中野裕通氏に聞いた20の質問

1951年 宮城県岩沼市に2人兄弟の次男に生まれる
1970年 宮城県仙台第三高等学校卒業
1972年 株式会社ニコル(NICOLE)に入社
1976年 株式会社ビギ(BIGI)に入社
1979年 ビギを退職。デザイナー小栗壮介氏と、原宿のセントラルアパートにオフィスを構え、アパレル企業の傘下で新ブランドをスタート
1981年 株式会社サンエー・インターナショナルに入社。ビバユー(VIVA YOU)のチーフデザイナーに就任
1984年 サンエー・インターナショナルにて、自身のブランド「hiromichi nakano(ヒロミチナカノ)」をスタート
1986年 東京ファッションデザイナー協議会(CFD)加入
1991年 独立。株式会社ヒロミチ・ナカノデザインオフィスを設立
1998年 パリ・コレクション(1999年春夏コレクション)に初参加

《受賞歴》
1989年 毎日ファッション大賞新人賞・資生堂奨励賞
1999年 第42回日本ファッション・エディターズ・クラブ特別賞  

     

パリコレへの挑戦を経て見つけた
新しい境地

パリ・コレクションを視野に入れてキャリアを考えるようになった中野は、40歳でサンエー・インターナショナルを退職し、独立する。「このまま会社にとどまっていては、自分が思うパリコレは実現できない」と判断したからだ。

独立して会社の後ろ盾がなくなり、状況は一変しました。生地を仕入れようにも卸店が取引をしてくれない。できる範囲でやるしかないので、最初のショーでは、日暮里まで出かけて安く買ってきた生地と、自分が持っていた古着をかけ合わせたデザインの服を発表しました。
 その後も身の丈に合った仕事を続け、少しずつ力を蓄えていきました。45歳の時、パリコレへの挑戦を決め、クロード・モンタナの右腕といわれ、マリテ+フランソワ・ジルボーのショーのスタイリングを手掛けるフランス人の女性を紹介してもらいました。彼女に僕の作品を見せると「この服は、パリコレで通用しない」と言うわけです。悔しくて、その後も数シーズン、新たにデザインした服を見せ続けました。ようやく「OKだ」と言わせたのは2年後。すぐにパリのプレスルームと契約し、47歳にして初めてパリでコレクションを発表する機会を得ました。
 ただし、東京とは勝手が違う舞台であることを痛感しましたね。日本人しか観に来てくれなかったらパリでやる意味がないし、本当に観客が集まるのかなど、ものすごく不安になるわけです。その緊張感は東京コレクションの比ではなかったけれど、エキサイティングな経験だったことは確かです。
 パリコレは8年参加しました。8年でやめた一番の理由は、費用がかかりすぎること。このまま続けることに無理があると感じたからです。洋服を発表できる最高の場はパリコレと今でも思っています。でも原宿にいたい一心で洋服に携わる仕事に就き、デザイナーにもなれ、その仕事を通じてアイドルといわれる人たちともお付き合いができ、東京コレクション、そしてパリコレにも参加できた。その時々の夢を一つずつ実現してきた。その時はもうこれで十分だと思えたんですね。だからきっぱりとあきらめることができたのです。

パリコレを経て、自分らしい活動を模索しはじめる中野氏。デザイナー中野裕通の今の生き方とは?次回は最終回は、その美意識、コレクターとしてのこだわりなど本質に迫ります。

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