肖像

ファッション業界の最前線で活躍するトップクリエイターの方々にインタビュー

山本 寛斎 Vol.2

PROFILE

山本 寛斎 (やまもと かんさい)
山本 寛斎氏に聞いた20の質問

1944年 2月8日、神奈川県横浜市に3人兄弟の長男として生まれる
1965年 日本大学文理学部英文科を中退。コシノジュンコや細野久の
    アトリエでお針子として働きながら、独学でスタイル画を学ぶ
1968年 渋谷西武のアバンギャルドショップ「カプセル」に出展
1971年 株式会社やまもと寛斎を設立。ロンドンにおいて日本人として
    初めてのファッションショーとなる「Kansai in London」を開催
1974年 パリで「Kansai in Paris」を開催
1979年 ニューヨーク・コレクションに参加
1980年 パリ、ミラノ、サントロペなどに「ブティック寛斎」をオープン
1985年 東京コレクションに参加(~1993年)
1993年 ロシア・モスクワでスーパーショー「ハロー!ロシア」を開催
1995年 ベトナム・ハノイで「ハロー!!ベトナム」を開催
1997年 インド・ニューデリーで「ハロー!インディア」を開催
2000年 岐阜県・長良川競技場にて「ハロージャパン」を開催
 

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デザイナーを目指し、必死になった20代前半。

ファッションデザイナーを目指し、21歳で大学を中退。月収50万円のテレビ局でのアルバイトも辞め、コシノジュンコ氏のアトリエで、月収1万2000円のお針子修業を開始した。1年半後、さらに本格的な体験を積もうと、細野久氏のアトリエに移り、オートクチュールの世界で経験を積む。装苑賞を受賞したのは23歳。8回目の応募で、寛斎は念願の“切符”を手にした。

 何としてもファッションデザイナーになりたかったし、“世界一のお洒落になりたい”という欲求も強かった。すでに大学を辞めて退路を断っていたので、装苑賞を受賞しない限り、大学中退のダメ青年に明るい未来はやってこないぞ、と。今思い返しても、受賞への執念は凄まじく、死にもの狂いで勉強していました。昼はアトリエで服を縫い、夜は『装苑』を見ながら、スタイル画を描き起こす練習。電車に乗っていても、頭の中で常にデザインを考える、暗算ならぬ“暗デザイン”(笑)。寝ても覚めても、考えるのはファッションのこと。周りにあるものすべてから何かを吸収しようとしていました。
 装苑賞を受賞した時は、応援団長の経験をフル活用しました。審査では客席から拍手が沸きますが、文化服装出身ではない私には、仲間がいないから、自分で応援するしかない。モデルに服を着せると、急いで客席に行き、大きな声で「その服カッコいい!」と叫ぶ。すると、会場が沸いて審査員の顔色が変わり、予選は1位通過。本選では、先ほどの反対側にまわり、今度はモデルの名前を大声で叫んで、見事1位を獲得。「とにかく受賞しなくては」と、必死だったのです。
 妻と駆け落ち同然で結婚していた私は、装苑賞受賞後も、3畳のアパートで服を縫い続けました。服の仕事だけでは生活が立ち行かず、日雇いの肉体労働をかけ持ちしていました。そんな状況を見かねて、岐阜県で老舗洋品店を営む妻の実家が、私の服を「店で販売しよう」と助け船を出してくれた。そんな支援もあって何とか服づくりだけで食えるようになり、24歳の時には、小さなアトリエを構えることができました。

装苑賞を獲得した寛斎氏は、その後、自分のステージをロンドンで見つけ、一躍、時代の寵児となっていきます。その活躍は次回にて!

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