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- 肖像 高田 賢三 Vol.5
ファッション業界の最前線で活躍するトップクリエイターの方々にインタビュー

高田 賢三 (たかだ けんぞう)
高田 賢三氏に聞いた20の質問
1939年 2月27日、兵庫県姫路市生まれ
1958年 神戸市外国語大学を中退し、文化服装学院師範科に入学
1964年 6カ月の予定でパリへ船で向かい、そのまま住みつく
1970年 独立し、自分のブティック「JUNGLE JAP」を開業
1985年 東京にケンゾー・パリ株式会社を設立
1993年 フランスの企業グループ、LVMHにブランドを売却
1999年 「KENZO 30ANS」を最後に、ブランドを退く
2002年 独立デザイナーとして復帰。フランスの通販雑誌『ラ・ルドゥート』にデザイナーとして参加
2006年 「TAKADA」で、2007年春夏コレクションを発表
2010年 パリで「能」をテーマした絵画の個展を開催
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経営パートナーとの関係悪化。そしてブランドの売却を決意。
—事業は順調だと思っていたが、実はかなりの負債があることが判明。経営面を見ていたジルとの関係に亀裂が入り、80年1月に彼を解任。会社立て直しのスペシャリストを迎え、何とか倒産は回避したが、スタッフは半数になってしまった。「近藤さんや信頼できるスタッフ
その後、ジョルジオ・アルマーニで経営手腕をふるっていたフランソワ・ボーフュメが加わり、みるみる業績が伸びていきました。ブティックはパリだけで5店舗に増え、83年にはケンゾー・オム、86年にはケンゾー・ジャングルとケンゾー・ジーンズ、87年にはケンゾー・アンファンをスタート。そうなると、デザインは僕一人の手には負えなくなり、ジャーナリストからは「もっとクリエイティブな服をつくるべき」と揶揄される始末。また、80年代はトレンドがセクシーになってきて、「僕自身が時代に合っていないのでは」という不安も芽生えてきた。そういう服が主流になると、僕には厳しかった。だって、つくれませんから。でも、社員もいるし、途中では投げ出せません。追い打ちをかけるように、90年、共同経営者だった親しい友人が亡くなり、ほどなく僕の右腕だった近藤さんが脳梗塞で倒れてしまった。茫然としました。80年の経営危機を乗り切れたのは、彼らがいてくれたから。二人の味方を失って、僕は経営を続けていく自信も失ってしまった。人生最悪の時期でした。93年にLVMH(モエ・ヘネシー・ルイ・ヴィトン)に株式を売却してデザイナーを続け、99年10月の「KENZO 30ANS」を最後に身を引いたのは、60歳で区切りがよかったから。退任後2年間はデザイナー活動ができない契約だったので、本格的に油絵を描き始めました。デザイナー活動を再開してからは、バカラとのコラボレーション、「TAKADA」という自分のブランド名でのコレクション発表など、自由にやっています。最近では、カンボジアのホテルプロジェクトに参加し、建築家と協働で設計やインテリアをディレクションしたり、スタッフのユニフォームをデザインしたり。ホテルの総合ディレクションは初めてなので、楽しい反面、「本当にうまくいくかな」という怖さもあります。パリを拠点にデザイナー活動を始めてから半世紀近く経ち、たくさんの山と谷を経験しました。そんな僕の経験からいえるのは、「自分はどんな服をつくりたいのか」を考え抜くことの大切さ。僕の場合は、日本人であるというアイデンティティで勝負することでした。本当にやりたいことを明らかにしたら、何があってもぶれずに貫く。それが世界で戦う時のベースになったのだと思います。