肖像

ファッション業界の最前線で活躍するトップクリエイターの方々にインタビュー

コシノヒロコ Vol.2

PROFILE

コシノヒロコ (コシノ ヒロコ)
コシノヒロコ氏に聞いた20の質問

1937年 大阪・岸和田市に生まれる
1961年 文化服装学院を卒業後、銀座小松ストアー(現ギンザコマツ)
    ヤングレディースコーナー専属デザイナーに
1964年 大阪心斎橋にオートクチュール・アトリエを開設
1978年 ローマ、アルタ・モーダに日本人として初めて参加
1982年 パリ・プレタポルテコレクションに参加。以後年2回参加
1988年 株式会社ヒロココシノデザインオフィス設立、
    代表取締役社長に就任
1997年 大阪コレクションにて、大阪府知事、大阪市長をモデルに迎え
    ヒロココシノ・オム・コレクションを発表。
    ブランド設立15周年、デザイナー創作40周年を迎える  

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時代は日本のファッションの黎明期
ファッションデザイナーとしてのキャリアが始まる

文化服装学院を卒業すると母に呼び戻され、コシノ洋裁店を手伝うことになる。だが再び上京し、61年、ジュンコと共に「銀座小松ストアー」の専属デザイナーなった。

振り返ってみると、私はとてもいい時代に生まれています。戦後、海外から新しい文化がどんどん入ってきて、女性はきれいであることに積極的になり、社会もそれを受け入れられるだけ成熟した。またデザインという行為の重要性も認められつつありました。デザインで洋服の発展にもっと貢献していきたい。自然とそう考えるようになったんです。
 ジュンコとは、常に強烈なライバル関係でしたね。二人して真剣勝負、全然違う服をつくり、全然違うお客さまをつかまえて。今考えても、その頃はものすごく面白いデザインをしています。マスコミも徐々に注目してくれ、デザイナーとしてはルンルン気分でやっていました。でも二人とも社会経験の浅い子供ですから、幾度も上司に怒られてばかりで、3年目でクビに。当時の銀座では、三宅一生や高田賢三、松田光広、金子功らが働いていて、よく私たちの会社のデスクに集まってワイワイやっていたんですよ。そこでちょっと無茶苦茶やりすぎたんですね(笑)。
 会社を辞めたあと大阪に帰って、64年、心斎橋にオートクチュールの店を出しました。「クチュール コシノヒロコ」。この店は母が「もう岸和田で仕事せんでええ!」といって、借金しまくって私に用意してくれたんですよ。まあ支店でもつくるつもりだったんでしょうねえ。
 心斎橋という場所のよさもあって、例えば、石津謙介や安藤忠雄など、一流のクリエイターのたまり場になりました。あの頃は輸入の生地屋さんが大阪に集まっていたので、最高の生地を仕入れて、当時で一着20万円もするようなオートクチュールの服をどんどんデザインしていましたね。今もそうなんですが、スタイルブックはいっさい置きません。布の表情を見て、お客さまの顔を見て、絵を描くようにデザインするというやり方。それで最高にいいものをつくる。関西のセレブな奥さま、お嬢さま方からもご贔屓にしていただきました。
 私の作風は、トレンドに合わせて猫の目のように変わります。当時はサイケデリックが流行っていて、私もド派手な服をひらめかせて心斎橋を闊歩するのが趣味でしたね(笑)。若いデザイナーは、スポンジみたいに時代を吸収しながら育っていくもの。そうでなければ、ファッションの仕事はやっていけない。新しもの好き、浮気性、飽き性でなければ、私はもうとっくの昔に消えていたと思います。

数多くの才能あるアーティストたちとの交流も深めていったヒロコ氏。次号はついに海外にその舞台が移ります!

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