肖像

ファッション業界の最前線で活躍するトップクリエイターの方々にインタビュー

コシノヒロコ Vol.3

PROFILE

コシノヒロコ (コシノ ヒロコ)
コシノヒロコ氏に聞いた20の質問

1937年 大阪・岸和田市に生まれる
1961年 文化服装学院を卒業後、銀座小松ストアー(現ギンザコマツ)
    ヤングレディースコーナー専属デザイナーに
1964年 大阪心斎橋にオートクチュール・アトリエを開設
1978年 ローマ、アルタ・モーダに日本人として初めて参加
1982年 パリ・プレタポルテコレクションに参加。以後年2回参加
1988年 株式会社ヒロココシノデザインオフィス設立、
    代表取締役社長に就任
1997年 大阪コレクションにて、大阪府知事、大阪市長をモデルに迎え
    ヒロココシノ・オム・コレクションを発表。
    ブランド設立15周年、デザイナー創作40周年を迎える  

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日本の伝統美を引っ提げ、衝撃の海外デビュー。
世界的なジャポネスクブームを呼ぶ

78年、イタリアのオートクチュール・コレクション「アルタ・モーダ・ディ・ローマ」に日本人として初参加したヒロコは、「日本の伝統美」を全面的に打ち出した。海外プレスにスタンディングオベーションで迎えられ、この機を世界進出の足がかりとする。82年からは10年にわたりパリ・プレタポルテコレクションに参加。ヒロコ曰く「願うことがすべて形になっていった時代」の幕開けだ。

 初めての海外で、しかも本場である西洋の人たちと戦うわけでしょう。まともにいったら絶対に勝てません。彼らに勝つ方法は、日本人である私たちが歩いてきた歴史を知ること、日本独特の美の極みを武器にすることだと思いました。なぜそこに到達したかというと、3歳の時から祖父に植え付けられた美意識、これが非常に大きい。その美意識を形にしたものをローマで発表したのです。
 簡単にいうと、布をたくさんカットして造形するのではなく、着物のように布一枚を膨らませたり持ち上げたりして、立体的に表現した服です。会場中が総立ちになって拍手が鳴り止まなかった時は、鳥肌が立つほど感動しました。長いデザイナー生活のなかでも、自分らしいもの、成功できるものを寝ても覚めても追求したという意味では、あのコレクションが頂点だったと思います。命懸けで何かしようと思うと、人間はものすごい力が発揮できることを学んだ体験でした。
 パリコレに参加するちょっと前に、緑深い芦屋の山中に安藤忠雄設計の家を建てました。これもデザインのため。日本の四季の素晴らしさを体得しないと本当のデザインはできない、と思ったから。実際、この家を建てた頃から、自分の願うことが念力のようにすべて形になっていきました。家の周りには猪や狐がいる。春夏秋冬の全部が身近にある。日本人はこういう四季のなかで独自の美を形にしてきたんだと、頭ではなく身体で感じられる環境です。それでいて、家の中は安藤忠雄らしいコンクリートの無機質な空間。これがまた、無彩色であるからこそ、いろんなものを想像させてくれるんです。
 ただ、税理士には自殺行為だと言われましたね。貯蓄が10000万円しかないのに1億円の家を建てたんですから、まあ当然です。何年たってもローンが減りませんし、暖房装置にお金がかけられないから寒くて、冬は家の中でもスキーウエアを着ていたぐらい。家の中は戦いですよ。でも、デザイナーは戦いがあったほうがいいと思う。ほかほかとしたなかで何かやろうとしても無理。苦しい環境でこそ突き抜けた力が養われる。リスクを取ってこそ、自分以上の力を出せる。いわば安藤忠雄の家を建てることで、その後の成功のために最高のリスクを取ったわけです。私にはパリ・コレクションに出て、パリにお店を出すという大きな目的があった。その実現まで、どんなことがあっても、へこたれるわけにはいかなかったんです。

目指す理想に向けてまっすぐに走り続けたヒロコ氏。現在、ギャラリーとなっている芦屋の安藤忠雄建築の家は、まさに自身のステージを上げるために必要な家でした。次回は、頂点を極めたヒロコ氏がさらに新しい展開を広げていきます。

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