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- 肖像 皆川 明 Vol.3
ファッション業界の最前線で活躍するトップクリエイターの方々にインタビュー

皆川 明 (みながわ あきら)
1967年 東京都大田区に生まれる
1987年 文化服装学院服飾専門課程Ⅱ部服装科に入学
1989年 文化服装学院を卒業後、大西和子のメーカー「P・J・C」などに勤務
1995年 自身のファッションブランド「minä(ミナ)」を設立。東京・八王子にアトリエを構える
1999年 アトリエを阿佐ヶ谷に移す
2000年 アトリエを東京・白金台に移し、初の直営店をオープン
2003年 ブランド名を「minä perhonen(ミナ ペルホネン)」に改名。フリッツ・ハンセン社とのコラボレーションで、
「minä perhonen」の生地をまとった家具、エッグチェア、スワンチェア、セブンチェアを発表
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たった1人でブランドを設立。
バイイングもプレスも経験ゼロからのスタート
1989年に文化服装学院を卒業すると、縫製工場で働いたり、オーダー店のパタンナーなどに従事。
有名なファッションブランドに勤めたことは一度もない。その理由は、「今あるファッションの流れと同じ服をつくることに興味がなかった」から。そして、27歳になった95年、皆川は「minä(ミナ)」を1人で立ち上げる。最初の発表は3着のみ。とても小さなブランドの船出だった。
オリジナルデザインのテキスタイルによる服づくりを特徴とする「minä」のルーツは、独立前に働いていた小さな会社にあります。そこは、生地からデザインし、洋服を縫い、ギャラリーを借りて売るまで、全部自分たちでやるところで、その会社にたどり着くまで、僕は縫製とパターンの仕事を経験してきました。そこで気がついたわけです、もう自分1人で服をつくれるじゃないか、と。
料理は食材を仕入れないとつくれないけれど、洋服は食材にあたる生地も自分でつくれる。だったら素材からつくらないと“もったいない”じゃないですか。そもそも僕は、“かたち”をクリエイションする能力がそれほどないと自己認識しています。独立した当時はデザイナーズブランド全盛で、服の“かたち”が強かった時代。でも僕はシンプル、プレーンなデザインが好き。だとしたら、生地から全部自分でつくらなければ、独自性が出ない。そう考えたのです。

ブランド設立以来、手で描いた図案を、織りやプリント、刺繍などの手法を用いて、テキスタイルとして表現するのが皆川のスタイルだ。
創業当初は、縫製工場との交渉も、でき上がった服の販路開拓も、すべて皆川1人でこなした。
2000年頃まではビジネスとしてやっていけるという自信はまったくなかった。しかし「売れなくても、続ける」。皆川はそう決めていた。
一番大変だったのは、生地づくりを引き受けてくれる工場が限られていたことです。ロットも少なかったし、スタートしたばかりで実績もなく、売り先のあてもないようなブランドですから、信用もありません。「商社を通してくれ」と言われたりして、何度もほろ苦い経験をしました。
売り先の開拓も一からです。僕はバイヤーという職種も知らなければ、プレスは、アイロンかけのことかと思っていた(笑)。だから、誰に服を見せにいったらいいかも見当がつかなかったんですよ。車に服を積んで、1週間東北地方で営業してみたり、スーツケースに洋服を詰め込んでヨーロッパのショップを回ってみたりもしましたが……注文をくれるのはバイヤーであって、ショップの店員ではありませんよね。もちろん、1着も売れませんでした。
そのうちに展示会をすればバイヤーさんが来てくれることに気がつくわけですが、これはこれで1日いくらと場所代がかかるんです。搬入に1日かけるお金はないから、会場に「午前0時から貸してください」と無理なお願いをして、深夜に搬入して朝から展示を始める。あの頃は家賃3万円の家に住み、生活費も極限まで切り詰めて、生地を買うという暮らし。魚市場などでアルバイトしながら生計を維持するなど、ギリギリの状態が長らく続きました。
洋服の仕事だけで暮らせるようになったのは、2000年、東京の白金台に直営店を出してからです。きっかけは、伊勢丹の「解放区」や、ユナイテッドアローズ、ビームス、ベイクルーズといったセレクトショップで扱ってもらえるようになったこと。ユナイテッドアローズは当初、主要店舗のみの取引でした。でも、当時はバイヤーさんと直に話せる機会があり、生地ができあがるたびに持参して「こんな服をつくろうと思っています」とプレゼンしていたんですね。するとある時、「この服を全国展開したい」と言ってもらえた。ついに自分の服が全国に並ぶ!という実感がわいて、すごく嬉しかったです。以降、徐々に発注が増え始めて、ブランドも軌道に乗っていきました。