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- 肖像 永澤陽一 Vol.1
ファッション業界の最前線で活躍するトップクリエイターの方々にインタビュー

永澤陽一 (ながさわ よういち)
永澤陽一氏に聞いた20の質問
1957年 京都に一人っ子として生まれる
1978年 三重県の日生学園高等学校(現:桜丘高等学校)を卒業
1980年 名古屋モード学園を卒業後、渡仏。TOKIO KUMAGAI ABC DESIGN PARISに入社
1988年 「TOKIO KUMAGAI」のチーフデザイナーとして、東京コレクションに参加
1991年 日本に帰国して、株式会社スチルを設立
1992年 「YOICHI NAGASAWA COLLECTION」を発表。同年、「無印良品」の衣料品ディレクターに就任
1993年 若者を対象とした「 NO CONCEPT BUT GOOD SENSE」を発表
1996年 97年春夏パリ・コレクションに初参加
1997年 日本アジア航空(JAA)のユニフォームをデザイン
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やりたいことがあるなら、迷わずやる。
昔からそれが僕のスタイル。
何を望まれているのかを第一に考え、
結果を出していけばいいだけの事。
1957年、京都に生まれ、一人っ子として育った永澤陽一は、軍人だった父が買ってきたゼロ戦のおもちゃで遊ぶなど、ファッションとは無縁の幼少期を過ごす。「大それた将来の夢もない、普通の子供だった」という永澤が、ファッションに興味を持ち始めたのは高校時代。憧れたのは、アイビールック全盛期のVANヂャケット、そしてテレビドラマ『傷だらけの天使』で萩原健一が着ていた菊池武夫の服だった。
そもそもファッションの道に進もうなんて、まったく考えていませんでした。親には大学進学を勧められましたが、高校が厳しい全寮制だったため、とにかく自由になりたい一心。働いて自立しようと考えたけど、普通の会社員になる気はさらさらなくて、メンズの洋服店でアルバイトを始めました。
ある日バイト仲間の友人が、将来設計のないその日暮らしの僕を心配して「そんなに服が好きなら、売る側ではなく、つくる側になったら?」と、ファッションデザイナーの知人を紹介してくれた。その後、友人とその人の母校を見学に行き、「これなら俺にもできそうだ」と、名古屋モード学園への入学を決めました。だから、ファッションの道に進んだのは、その友人のおかげ(笑)。
モード学園には3年通いました。1年目は昼間で、2年目からは夜間。日中アルバイトをしないと、生活費と授業料を支払えなかったからです。
授業は、パターンや縫製など初めてのことばかり。課題も多く大変でしたが、「基礎を身につけておかないと、社会に出ても役に立たない」と必死で勉強しましたね。