肖像

ファッション業界の最前線で活躍するトップクリエイターの方々にインタビュー

永澤陽一 Vol.3

PROFILE

永澤陽一 (ながさわ よういち)
永澤陽一氏に聞いた20の質問

1957年 京都に一人っ子として生まれる
1978年 三重県の日生学園高等学校(現:桜丘高等学校)を卒業
1980年 名古屋モード学園を卒業後、渡仏。TOKIO KUMAGAI ABC DESIGN PARISに入社
1988年 「TOKIO KUMAGAI」のチーフデザイナーとして、東京コレクションに参加
1991年 日本に帰国して、株式会社スチルを設立
1992年 「YOICHI NAGASAWA COLLECTION」を発表。同年、「無印良品」の衣料品ディレクターに就任
1993年 若者を対象とした「 NO CONCEPT BUT GOOD SENSE」を発表
1996年 97年春夏パリ・コレクションに初参加
1997年 日本アジア航空(JAA)のユニフォームをデザイン  

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熊谷登喜夫氏の急逝、自身の病気、そして全てを捨てて帰国。
逆境の中から新ブランドを立ち上げる

ヨーロッパと日本で順調に売り上げを伸ばしていたが、87年に熊谷登喜夫が急逝し、メゾンは大混乱。永澤が、チーフデザイナーとしてブランドを引き継ぎ、東京コレクションを7シーズンにわたって発表する。しかしその多忙さのあまり、3年を過ぎた頃から体に不調が表れた。

TOKIO KUMAGAI INTERNATIONALでパリを一任されていた僕は、年間180フライト近くヨーロッパ各地と東京を行き来しながら、トキオ・クマガイのコレクションを発表していました。受け継いだブランドへの使命感で走り続けていましたが、次第に心と体がおかしくなって……。いきなり道が歪んで見えたり、呼吸困難になったりして、遂に限界が来ました。病名は不安神経症。パリでしばらく入院した後、日本の病院に転院することになりました。
 日本の医師からは「嫌なことから逃避することが、一番の治療だ」と言われました。生活のベースはフランスでしたし、これまで築き上げてきたものもある。そのうち戻るつもりで、パリのアパートも1年近くそのままにしていました。ですが、体と心はもう限界。さんざん悩んだ末、すべてを捨てる決心をし、覚悟を決めて日本に戻りました。

トキオ・クマガイを辞め、日本に居を移した永澤は、91年、妻とともに株式会社スチル を設立。貯蓄を切り崩しながら、フリーデザイナーとして仕事を請けていたが、92年、一 念発起して自分のコレクションを発表する。だが、それは肩書を失くした逆境からのスタ ートとなった。

 今と違って当時はまだ「企業に属している」ということがステイタスの時代。僕はトキオ・クマガイのチーフデザイナーとして知名度があったとはいえ、個人のデザイナーとして始めようとすると、なかなかこれまでのように服地を売ってもらえませんでした。唯一懇意にしていた卸商から、靴に使用していたゴムを仕入れることができ、その資材を使ってつくった洋服を発表。それが「YOICHI NAGASAW ACOLLECTION」の92-93年秋冬東京コレクションです。あの時は「こういうものをつくりたい」より、「これで何ができるか」しかなかった。手に入る材料でできることを考え、クリエイションのすべてをぶつけて完成させた作品でした。
 そして、93年には、投網(とあみ)やパンチカーペット(床仕上げ材に使われる不織布)、94年には人工芝など、服地からかけ離れた資材を使ったコレクションを発表。こうした「資材シリーズ」が評価され、94年に毎日ファッション大賞新人賞を受賞することができました。それでもなかなか服地を売ってもらえませんでしたが、賞金100万円はすごくありがたかったですね(笑)。

自身のブランドを立ち上げ、新しいスタートを切った永澤氏。次回は「無印良品」衣料品 ディレクター就任、パリコレ進出の話題です!

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