肖像

ファッション業界の最前線で活躍するトップクリエイターの方々にインタビュー

津森 千里 Vol.2

PROFILE

津森千里 (つもり ちさと)
津森千里氏に聞いた20の質問

1976年 文化服装学院デザイン科ファッション課程を卒業し、
    アパレル企業に就職。約1年勤務した後、3カ月間ニューヨークを旅行
1977年 株式会社イッセイミヤケインターナショナルに入社し、「イッセイスポーツ」のデザイナーとなる
1983年 「イッセイスポーツ」のブランド名を「I.S. Chisato Tsumori Design」に変更し、
     チーフデザイナーに就任
1986年 文化服装学院の同級生と結婚。2年後に長男を出産
1990年 津森千里デザインスタジオを設立。東京コレクションに参加し、
自身のブランド「TSUMORI CHISATO」を発表(90-91A/Wコレクション)
1995年 TSUMORI CHISATO青山店をオープン  

MORE

     

三宅一生氏の下で出世魚のようにキャリアアップ。
自分の名前でブランドを発表

卒業後、1年間、あるアパレル会社勤務を経て、1977年に津森はイッセイミヤケインターナショナルに入社する。「イッセイスポーツ」のデザイナーとなった後、83年に「I.S. Chisato Tsumori Design」のチーフデザイナーに就任。そして90年、自身のブランド「TSUMORI CHISATO」を発表するなど、順調にキャリアを積み重ねていった。

「イッセイスポーツ」では、チーフデザイナーの下でアシスタントからスタート。最初はデザイン画を出してはボツ、出し直してはボツ。でも、私は打たれ強い性格なんですよ。何度ボツにされてもまったくへこたれず、平気で「花がついた服が欲しい」「ハイヒールをつくりたい」と思いつくアイデアをどんどん提案していました。チーフにとっては、手に余るアシスタントだったかもしれません(笑)。私は、「楽しい」「かわいい」「コレが欲しい」という直感でデザインしていくタイプ。「つくりたい」という思いが高まると、大好きなものを目の前にした子供みたいになっちゃうようなんですよ。
「パタンナーやスタッフとのチームワークを大切にしろ」「大きな視点でダイナミックにつくれ」。当時、一生さんからこの2つを教えられました。既製服づくりは、デザインが小さくまとまってしまいがち。特に女性デザイナーは細部に囚われてしまうことが多いのです。この時の一生さんの“教え”は、今も私の大切な仕事の流儀となっています。
 83年、私が30歳の時「イッセイスポーツ」のブランド名が「I.S. Chisato Tsumori Design」に刷新されました。
「イッセイスポーツ」のイニシャルI.S.は頭に残りましたが、ブランド名に私の名前が付いたことで、より自分らしいデザインを表現できるようになりましたね。また、チーフデザイナーとなった私の責任は重くなり、それまで以上に多忙を極めるようになりました。その後、32歳で文化服装学院時代の同級生と結婚し、34歳で子供ができたのですが、育児と仕事の両立は、本当に大変でした。
 I.S.の業績はとても順調でしたが、ある時、一生さんから「I.S.ではなく、違うブランドを出してみたら?」という話をいただいたんです。当時、息子は2歳。このタイミングで新しいブランドの立ち上げだなんて……本音を言えば、そっとしておいてほしかった(笑)。だって、2歳児の母親の毎日は、ものすごい忙しさですから。でも、そんな状況を知ったうえでの一生さんからのオファーです。「今やらなければ、いつやるの!」と覚悟を決めました。
 過去に、デザイナーが突然入れ代わるブランドをたくさん見てきましたが、それではやる意味がない。自分が新しいブランドを始めるなら、「自分にしかできないブランドにすべきだ」と。「ブランド名は自分の名前にする。デザインの積み重ねがそのまま実績になり、やりがいにもつながる」と考えたんです。
 また、自分の名前のブランドなら、独立したほうがいいと考え、90年に津森千里デザイン事務所を設立。ここから「TSUMORI CHISATO」がスタートすることになりました。育児と仕事の両立がさらに難しくなったので、アパレルメーカーに勤めていた夫に退社してもらい、事務所の主宰をお願いしました。この夫の協力は、本当にありがたかったですね。
 新ブランドを始める際、「I.S.よりも、もっとクリエイティブでカッコいいブランドにしなくちゃ」と、かなり気負っていました。そうしたら、思うように売れなくてね(笑)。クリエイティブってすごくいい言葉ですが、一般の人には伝わりにくい。それまでは「自分が着たい」「自分が欲しい」と思えるものをつくってきたのに、それより一歩上を目指すと、一歩上にいる人にしか理解されないんです。無理して、ちょっと背伸びし過ぎていたんだと思います。
 そんなわけで、スタート当初は赤字続き。その後も山あり谷ありでしたが、5年目ぐらいで、ようやく業績が上向いて黒字になりました。
 デザイナーが独立すると、経営的な部分で苦労するといわれますが、私は好きなモノをつくってみて、「売れればハッピー」「ダメなら変えてみよう」と、かなり楽天的にやってきました。売り上げが落ち込んでも、「そのうち、きっとうまくいく」と思ってきましたし、実際、今まで何とかなってきました。
 仕事と子育ての両立も同じで、何とかなるもの。私が忙しい時に何度も子供が病気になりましたが、夫や私の親に見てもらったり、私が帰宅するまでベビーシッターを延長するなどして、やっぱり何とか乗り切ってきましたからね。

三宅一生氏のもとで新しい境地をどんどん開いていった津森氏。そのフィールドはやがてパリへと広がっていきます。そこで彼女が得たものとは!? 次回はパリ編です。

BACK NUMBER

MORE